乗国寺は「見龍山覚心院(かくしんいん)乗国寺」といい、曹洞宗に属する禅寺で、結城家の菩提寺として開創された。
戦国争乱の室町時代、「結城合戦」で結城家十一代氏朝公(うじとも)、十二代持朝(もちとも)公父子は戦いに敗れ自らの命を絶った。嘉吉元年 の四月十六日のことである。 乗国寺はもとは福厳寺(ふくごんじ)という。結城合戦の時すでに福厳寺はあった。
「福厳寺口」と呼ばれる結城城の東の出入口にある寺で、この辺りで大きな合戦があったといわれる。宝徳元年開山に松庵宗榮(しょうあんそうえい)禅師が招かれ、持朝公の菩提(ぼだい)を弔う寺となる。
持朝公は開基(かいき)となり、戒名「福厳寺殿天英聖勇大居士(ふくごんじでんてんえいしょうゆうだいこじ)」の御位牌が安置されたのである。
寺は三国山福厳寺となる。三国山とは常陸(ひたち)・下総(しもふさ)・下野(しもつけ)の三国の事で、その境界の上に建立されたことを示すために山号としたといわれる。
『乗国寺起立』によれば、福厳寺は鬼怒川と田川に挟まれた処にあり、度々洪水があった。文明十一年の大洪水では伽藍(がらん)を失いただちに結城家十四代氏広(うじひろ)は現在地の上小塙(かみこばな)に移転して、見龍山覚心院乗国寺と改称し再輿されたという。
氏広公の戒名「乗国寺殿日峯宗光大禅定門(じょうこくじでんいっぽうしゅうこうだいぜんじょうもん)」は乗国寺を保護してきた中腿開基(ちゅうこうかいき)としての証しである。
以後、十六代政勝(まさかつ)公、十七代晴朝(はるとも)公の格別帰依を受け、結城家の位牌所として乗国寺は確立していった。 また、徳川家康の次男秀康(ひでやす)が結城家の養子となった縁から、徳川幕府より格別の計らいがあり、乗国寺には御朱印(ごしゅいん)六十一石(こく)六斗(と)八升(しょう)の寺領(じりょう)を賜(たまわ)っている。
当山の鎖守(ちんじゅ)は健田(たけだ)神社であった。結城本郷の地にあり、結城の総鎮守(そうちんじゅ)として多くの人々から信仰を受け、特に江戸時代の宝暦(ほうれき)十三年から明治三年の神仏分離までの間、別当職(べっとうしょく)を乗国寺が務め管轄していた。その後、健田神社は移転統合され、結城市浦町(うらまち)に健田須賀(たけだすが)神社として創建されている。
近年、様々な表梢をしている五百羅漢(ごひゃくらかん)を境内のあちこちに見る事ができる。これは現住臥雲 仙舟(げんしゅうがう せんしゅう)(鈴木)の下、信仰厚い檀上信徒たちがそれぞれ発願して寄進したものである。
また乗国寺では本堂の後ろに坐禅堂を建立した。念願であった坐禅修行のできる寺として漸(ようや)く実現したものである。坐禅をしたい人のためには、 正式な参禅指導を行っている。
乗国寺が上小塙(かみこばな)の地に移転開創された文明一年 (1479)には、御開山在世中初めての江湖(ごうこ)(禅僧(ぜんぞう)が集まり、結制安居(けいせつあんご)の修行をする)の行れを行う事を許され、以後「江湖権輿道場(ごうこけんよどうじょう)」として額をかかげ、北関東では一派をまとめ、江湖を行う修行道場となった。
江湖は法戦問答(ほっせんもんどう)から僧堂修行をする安居(あんご)期間までを含む事から、乗国寺は修行僧の教育機関としての役割を果す事となり、多くの人材を育んでいる。
また総寧寺(そうねいじ)、龍穏寺(りゅうおんじ)に乗国寺が加わった三箇寺(さんかじ)は日本僧録職(にほんそうろくしょく)(僧職(そうしょく)の登録、任免(にんめん)の録事(ろくじ)を司る官職)に任ぜられている。
乗国寺は文明年間から慶長(けいちょう)年間に至る約百三十年間これを務め、その後、大中寺(だいちゅうじ)(栃木、富田(とんだ))に譲(ゆず)っている
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本堂内陣
現在の本堂は文久元年(1860)二十七世道隆宗稔が大雄山最乗寺(南足柄市)から杉松の巨木を運んで最乗寺の本堂と同様に建立したと伝えられ道了大権現の火盗除けの御利益あらたかである。大正八年三十四世耐中恵忍は茅荘きを瓦に換え、平成十二年、開創五百五十年を記念して屋根の奸き替え改修をしている。
山門(楼門・市指定文化財)
赤門として親しまれている。正徳三年(1713)十四世厳照印叢の創建。木造銅板肝き、入母屋造り、屋根の両端に蕨手形が付けられている。明治三十五年の大暴風で崩壊。大正十三年九月、上府はそのまま組み立て、下屑はコンクリートに改築した。